音楽院を修了したあとは、ピアノソロの実技はフィレンツェ近郊に住む先生のもとで、プライベートレッスンを受けることになりました。
ピアノ奏法の悩み、先生との出会い
その先生との出会いは、とある国際コンクールでした。
その時の私は奏法に悩んでいて、体もがちがちで指の動きも悪く、無理やり体をだましながら弾いている状態でした。
その当時の先生は、いわゆる天才肌で、「それはショパンじゃないよ」と言われましたが、ではどうすればいいのかわからず、負のスパイラルにすっかりはまってしまい、とても賞などとれる気がしていませんでした。
案の定、コンクールは予選敗退でしたが、その後審査員の先生方に講評を聞くことができました。
そのうちの一人が、その後5年にわたって師事することになる先生だったのです。帰り際に先生が連絡先を渡してくださり、まずは1回レッスンを受講することになりました。
その時は、音楽院の最終学年で、修士論文を書いている最中だったので、良いタイミングでスムーズに先生の変更をすることができました。
ピアノ奏法改善のため猛特訓の日々
チェゼーナからフィレンツェは電車だけで2時間。
遠方に住んでいたので、先生のレッスンは月に1回、途中休憩も含め6時間くらいみっちりでした。移動時間も含めると、丸一日です。
まずはバッハから。根本的な奏法改善から始まり、古典派、ショパンエチュード、近代など一通り網羅しました。
まず最初に与えられたのが、バッハのパルティータ第6番でした。バッハの鍵盤作品の中でもとりわけ密度の濃い作品で、音楽的にも技術的にもバッハの特徴のすべてが凝縮されています。初めてのレッスンでずっと同じバッハを6時間弾き続けて、とても集中力が持たなかったのを覚えています(笑)
その初回のレッスンで言われたのが、「君の身体のつくりはこうだから、こう弾いたらもっと楽に弾けるのに」でした。その時、「私が求めていたのはこれだ!」と思いました。
体ががちがちで弾き続けていても、いつか故障してピアノ人生が終わる未来しか見えていなかったからです。
もちろん、それまで勉強していたチェゼーナ音楽院での時間も素晴らしいものでしたが、先生がどこか天才肌、そして西洋人と東洋人の骨格の違いをうまく落とし込めず、「生涯にわたって長く弾くことのできる奏法とテクニックの習得」はできないままでした。
この時すでに、一時帰国中にピアノ脱力法メソッド®の単発レッスンを1度だけ受けていましたが、当時はまだオンラインレッスンもない時代だったため、しばらくはこの先生のところで学ぶことに決めました。
1音の打鍵から、すべてをやり直す
そこから、1音1音打鍵する練習なども始まりました(その後、ピアノ脱力法メソッド®の「黒二本」というトレーニングで同じ目的の練習に再会します)。日本のピアノ教育では全く聞いたことのない練習方法でした。
先生はすでに高齢で、現役の演奏家としてはリタイアしていましたが、ピアノ教育者としてとても優れた先生でした。純粋な奏法改善に取り組むなかで、ミケランジェリのレッスンでのエピソードなど、過去の偉人の貴重な話なども聞くことができました。
その後、ショパンエチュードの「エオリアン・ハープ」を与えられました。
これは日本の音大入試で弾いたことのある曲でしたが、当時はただ手首を横にスライドすることしか知らず、広い音域のアルペジオを頑張って指を広げて弾いていたため、指が痛くなり、前腕の筋も痛く、すぐ練習できなくなっていました。
それが、この先生の指導のもとで手首を回転させるような柔軟性を身につけることができ、それからは、見違えるように弾きやすくなりました。
そのほか、スカルラッティ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、シューベルト、シューマン、ドビュッシー、プロコフィエフなど、主要なレパートリーは一通り勉強、というかやり直しました。
内容の濃いレッスンであるにもかかわらず、レッスン代は、1日で100ユーロでした。6時間みっちり見ていただいてのこの値段は、とても良心的だったと思います。門下生もそれほど多くなく、だれかれ構わず声をかけているわけではありませんでした。
しかし、外国人である私は、当然ですが滞在許可書のために必ずどこかの公的な教育機関への所属が必要で、音楽院修了後にプライベートレッスンだけを受けるわけにはいきませんでした。
チェゼーナ音楽院の教授が勧めてくれたサンタ・チェチーリア国立アカデミアを受験し、無事合格。さらに遠方のローマに通いながらフィレンツェでピアノソロを勉強することになります。
このように幸運な出会いに恵まれ、それまでのピアノ演奏に足りない部分を克服することができ、次のステップに進むことができました。